Pocket Gallery Vol.64
「芒居」
中山 眞琴((株)ナカヤマ・アーキテクツ)

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 アメリカのピュリッツァー賞の受賞者、トーマス・フリードマンが、その著書[フラット化する世界]で「世界はフラットになった。」と語っています。確かに、ほとんどの情報が一本化され、ソフトも共通化されています。大約してコスト削減やスピード、利潤のためですが、このコスト性やスピード性は世界をグローバルなスタンダードにつくり変えていきます。大部分の情報は、数週間も経つと完全な形で我々の手に届きます。また逆に言うと、せっかく考えたアイディアやデザインも数週間後には違う国や場所でデフォルメされ実現されています。仕方がないことだとしても、アナログ世界で育った私にはどうも馴染めません。しかも、何かとんでもない方向に未来が作り変えられていくのではないかとも危惧しています。かつて日本中に襲いかかったセメント系サイディングは、今は沖縄から北海道の北の端まで蔓延しました。ウィルスのように増殖し地域性という美しい原種は、アメーバに侵され変質していきました。デザイナーや建築家でさえ使用したものでした。ローコストに抑えることに何の異議もありませんが、それがスピードというやはりコスト削減や防火のためだけに起因しているのです。その結果とんでもない街並みをつくってしまいました。サイディングがこの世に現れてから、30年以上も経っている現在もデザインを変えいまだ君臨しています。話は長くなりましたがサイディング一つとってもこのように日本全体が味気なく均一化されたのに、これが世界規模で色んなことが行われています。そして最終的にはどこの国も多国籍になり、やがて結果無国籍になっていくのでしょうか。ITの技術も反面、地域というアイデンティティーという力強さを無力化していくのかと思うと悲しくなってきます。
 今回の「芒居」という住宅は私の個人宅です。なぜ「芒」という字を使ったかというと、芒(すすき)という植物は和歌でもお花の世界でも素材としてすごく使用するのが難しいと知っていました。これだけ難しい素材を使用した場合、作者の技量が必要だと聞いていたからですが、「芒」自体私はすごく好きな植物だということもあるし、「素材化する」、「褪せる」、「錆びる」、「朽ちる」、という日本古来からの美学に前から憧れもありました。それらを表現するには3.2mm厚のコールテン鋼しかないと確信しました。実は、モルタル塗りの壁に比べ半分の重さで済むのです。絶対に木造にしたい、自邸では木造の限界を自分なりに見極めたいと思っていたので好都合でした。その枯れているものに、「芒」を結びつけ作品名にしました。
 私は日本人です。日本人にしかできないデザインは、存在するのではないかといつもそう思っています。日本人にしかできない美意識の中で構成されたデザインは絶対的にあると信じています。ただ、なぜ冒頭で長々と述べたかというとその日本人として美意識をもって設計している建築家が、あまりにも少ないということです。確かに一部の若いデザイナーは奇を衒うほうが世界的だし、雑誌にも載る確率が高いと思っている人がいるのでしょう。事実、最近の雑誌を眺めていても多くの作品はそのような傾向にありますが、しかし何か頭に残らないのです。「あっ、こんなすごいことやっている。」と、思った次の瞬間にはもう忘れているのです。何か形骸化されているのです。私の理念は、日本人の建築家であること。流行ものをするのではなくて、もっとベーシックなもの、建築は本来はそんなものでしょう。もっと気張ってなくていつ行っても精神が安らぐもの。それが建築本来の姿だと思います。それが、この歳になって初めてわかってきたような気がします。「変わりもの」はあっという間に何の刺激も与えなくなります。その時点で建築としての役割は終わってしまうのです。
 建築は、プログラムや理念のみでつくってしまうと、本当に大変なことになってしまいます。というのは、使うのは人間だからです。人間はもっともっとデリケートで、あらゆる環境に対応しなければなりません。雑誌に載った時はかっこいいのに、後から行ってみると散々な状況になっていたりします。中には賞をとっていた有名な住宅なんかでも暑かったり寒かったりで、もう売家になっていたりで、建築家の一人としてこれでいいのだろうか思ってみたりします。
 「芒居」は、住みやすく使いやすく日本人としての何かの表現ができないか、ということでスタートしましたが、木造ということもありかなり難航しました。眼下に広がる街並と、裏が山で真南なので、レイアウトはかなり時間がかかりました。北側にパブリックなものを集め、南側にプライベートな部分を集め、それを中央の吹抜で分節し階段でつないでいく。その微妙な差異とレベル差が対極を基本とする日本デザイン理念と妙にマッチしています。
 手作りの素材や、素材そのものを使用することも、何か日本的です。ある建築家が、「少し素材が多いのでは。」と指摘された時があるのですが、その質問はミニマムという理念の中から生まれているからであって、僕のこの「芒居」は表層的なシンプルやミニマムを目指していません。ここでは、民家であったり、骨董のもつ「何か新しい暖かさ」なのです。シャープであっても、鋭いことではなくて、何かやさしいものなのです。それらを使いながら削りとっていく空間こそが私の好きな空間作法です。利休も数十種類の材料を使っています。数字的な多さではなくバランスの問題なのです。それぞれがあまり出しゃばらないで、呼応する。それこそが日本の美意識なのです。西洋的でない伝統の日本美はそこにあるのです。
 今春、引越してから4ヶ月を過ぎようとしています。約500人の見学者が訪れています。1人で10回以上も来ている人もいます。その方々がおっしゃるには、建築って本来こうあるべきだよねって。頭でっかちの建築はもういらない。何か意図的すぎる建築は何か問題がある。人を幸せにする空間さえつくれば、建築家はいいのって。ちょっと頭が痛い話ですが、何か真髄をついている話でもあるような気がします。
 中村好文氏は、ある住宅の感想記において、「使い勝手も素材も空間も申し分ない。住んでいる人も幸せそうだ。ただ建築はそれだけでいいのだろうか。何か冒険というものが足りない気がする。建築が文化として発展するには、この部分が大切である。」と言っています。私もそう思いますが反対の気持ちもあります。その冒険の犠牲になるのはクライアントです。その犠牲なしで建築が文化と認識される日がいつの日か来るのでしょうか。あまりにもてはやされている建築はその点から開放されていない気がします。建築家の一人よがりが背景に見えるのです。

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by hokkaido-jia | 2008-09-01 05:00 | 北の建築家たち Vol.64
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